FAZER LOGINパーティーを終えて御堂邸へ戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
車寄せに停まった黒いセダンから降りると、夜気に冷やされた石畳から薄い湿気が立ち上っていた。ホテルを出る頃から降り始めていた雨はすでに止んでいたが、庭木の葉には細かな水滴が残り、玄関灯を受けるたび静かに光っている。
澪は運転手に礼を言い、ドレスの裾を持ち上げて玄関へ向かった。
蓮司は後ろから歩いてきたものの、ホテルを出てからここまで、二人の間にまともな会話はなかった。
車内では蓮司が仕事用のタブレットを開いていた。澪も話しかけなかった。三年間の結婚生活では珍しいことではない。帰宅途中まで仕事をしている夫と、その隣で外の景色を眺める妻。それは何度も繰り返してきた日常だった。
ただ今夜だけは、同じ沈黙でも意味が違った。
「お帰りなさいませ」
玄関で待っていた家政婦が頭を下げる。
「ただいま戻りました。遅くまでありがとうございます。もう休んでください」
澪がそう声をかけると、年配の家政婦はほっとしたように笑った。
「奥様こそお疲れでしょう。お飲み物をご用意いたしましょうか?」
「大丈夫です。自分でしますから」
「では、おやすみなさいませ」
この家の使用人は、御堂家から派遣された者が多い。その中で、この家政婦だけは結婚当初から澪に変わらない態度で接してくれていた。
誰かに優しくされると、今夜は少し困った。
ほんの少し気を抜いただけで、自分でも扱いきれない何かがこぼれてしまいそうだったからだ。
リビングへ入るなり、蓮司はネクタイを緩めた。
「先に着替えてくる。明日の資料を確認しないといけない」
「まだ仕事をするんですか?」
「朝一番で海外との会議がある」
そう答えながら、蓮司はもうスマートフォンに目を落としていた。
澪はしばらく夫を見ていた。
ホテルのテラスで聞いた言葉が蘇る。
――君は俺の妻だろう。
あの一言を、三年間の自分なら何日も大切に抱えていたかもしれない。
蓮司なりに必要としてくれている。
そう解釈して、また自分を納得させただろう。
けれど今夜は、どうしても同じようにはできなかった。
「蓮司さん」
呼びかけると、夫の指が画面の上で止まった。
「何だ?」
「着替える前に、少しだけ話せませんか」
「さっきの母の話なら、気にする必要はない。あの人は昔から思ったことをそのまま言うところがある」
「お義母様の話ではありません」
蓮司が初めてスマートフォンから顔を上げた。
「では何だ」
「私たちの話です」
その言葉が意外だったのか、蓮司はわずかに眉を寄せた。
澪は手にしていた小さなクラッチバッグをテーブルへ置き、ソファに腰を下ろした。
「座ってください。五分でいいですから」
「……分かった」
蓮司は向かい側ではなく、同じソファの少し離れた場所に座った。
その距離が妙に二人らしい。
近すぎず、遠すぎず。
触れようと思えば触れられる。それなのに、どちらからも手を伸ばさない距離。
澪は膝の上で両手を重ねた。
左手の薬指には、結婚指輪がある。
三年前、蓮司がはめてくれたものだ。
あの日の彼は、今より少しだけ緊張していた。
形式的な結婚式だった。それでも祭壇で指輪を渡す瞬間だけ、珍しく手元を確かめるようにしていたことを覚えている。
「今日が三周年だったこと、忘れていましたよね」
責めるつもりはなかったので、澪は穏やかに尋ねた。
蓮司は取り繕わなかった。
「ああ。悪かった」
「本当に忙しかったんでしょう?」
「言い訳にはならない」
「そうですね」
澪があっさり同意すると、蓮司は少し意外そうな顔をした。
「怒っているなら、怒っていると言えばいい」
「私、そんなに怒っているように見えますか?」
「いつもの君なら『気にしていません』で終わる」
「今日もそう言いましたよ」
「だから気になる」
澪は思わず夫を見た。
そんなところには気づくのか。
いや、違う。
三年も暮らしているのだ。この程度の変化くらいは分かって当然なのかもしれない。
それでも、少し嬉しいと思ってしまった自分が腹立たしかった。
「蓮司さんは、私が怒ったところをほとんど見たことがないでしょう?」
「ああ」
「喧嘩もしたことがありませんね」
「する理由がなかったからな」
「私は、そこが少し不思議だったんです」
「何が?」
「夫婦が三年間一緒に暮らして、一度もまともに喧嘩をしないことが」
蓮司は答えなかった。
澪は言葉を探しながら続けた。
「昔は、私たちは相性がいいんだと思っていました。蓮司さんは仕事が忙しくて、私は一人でいることが苦にならない。互いに干渉しすぎず、ちょうどいい夫婦なのかもしれないって」
「違うのか」
「今は、少し違う気がしています」
澪は指輪の表面を親指で撫でた。
「喧嘩をしなかったんじゃなくて、私が言わなかっただけなんですよね。寂しいとか、もう少し一緒に食事をしたいとか、休日くらいどこかへ行きたいとか。そんなことを言えば、忙しいあなたを困らせると思っていました」
「言ってくれれば予定くらい調整した」
「そうでしょうか」
「どういう意味だ」
「責めているんじゃありません。ただ、私も分からないんです。あなたがそういうことを望んでくれていたのか」
蓮司の表情に、わずかな苛立ちが浮かんだ。
「澪。何が言いたい?」
仕事の話では迷わない男が、夫婦の話になると急に結論を急ぐ。
そのことに、澪は今日初めて気づいた。
「結論を急がないでください。今まで三年間、ちゃんと話してこなかったんですから、今夜くらい少し回り道をさせてください」
蓮司は何か言いかけたものの、口を閉じた。
「……分かった」
澪は一度息を整えた。
「結婚した頃、私は怖かったんです」
「何が」
「御堂家に入ることがです。あなたの家は、私がそれまでいた世界とは違いました。誰と食事をするか、どこに座るか、どんな服を着るかまで意味があって、何気なく言った言葉一つで誰かに値踏みされる。あなたには普通でも、私には全部初めてでした」
「それなら、もっと言えばよかった。必要なら担当者もつけられた」
「そういうことなんです」
「何がだ?」
「あなたはいつも、問題があれば解決しようとしてくれる。でも、私が怖かったと聞いて、『怖かったのか』とは言ってくれない」
蓮司の顔から言葉が消えた。
澪は自分でも驚いていた。
こんなふうに夫へ話したことがなかった。
いや、話そうとしたことすらなかったのかもしれない。
察してほしいと思いながら、自分の方から扉を閉めていた。
「ごめんなさい。今のは少し意地悪でした」
「いや」
蓮司は低く答えた。
「続けてくれ」
それだけで、また少し心が揺れた。
三年間、この人のこういうところが好きだった。
冷たく見えても、完全に人の話を無視する男ではない。自分が間違っている可能性を認めることもできる。
だから期待してしまった。
いつか、もっと近づけるのではないかと。
「私、あなたの妻になれて嬉しかったんです」
澪は笑った。
「最初は祖父同士の約束みたいな結婚でしたけど、それでも私は、少しずつ本当の夫婦になれたらいいと思っていました」
「俺も、この結婚を嫌だったと思ったことはない」
「それは、よく分かっています」
「なら――」
「でも、それと幸せだったかは別でしょう?」
蓮司が黙った。
澪は逃げずに夫を見る。
この質問だけは、今夜聞かなければならない。
明日になったら、もう妻として聞くことはできないからだ。
「蓮司さん」
「ああ」
「私と結婚して、幸せでしたか?」
部屋が静かになった。
壁際の時計が時を刻む音が、妙に大きく聞こえる。
澪はすぐには答えを求めなかった。
三年について尋ねているのだ。数秒くらい考えても構わない。
けれど、十秒。
二十秒。
蓮司は答えなかった。
彼の目がわずかに揺れている。
澪は、胸のどこかでまだ待っていた。
たった一言でいい。
幸せだった。
そう言ってくれたなら。
明日の朝、用意してある紙を破れるかもしれない。
荷物を戻せるかもしれない。
今日の屈辱だって、いつか夫婦で笑える思い出になるかもしれない。
そんな馬鹿な期待を、最後の最後まで捨てきれなかった。
「その質問に、今答えなければ駄目なのか」
返ってきた言葉に、澪は一瞬だけ目を閉じた。
「はい」
「澪」
「難しい質問ですか?」
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味ですか」
蓮司は髪をかき上げ、それからテーブルに置いたスマートフォンへ目をやった。
ちょうど画面が点灯した。
着信だった。
表示を確認した蓮司の表情が仕事のものへ変わる。
「悪い。海外支社からだ」
澪は笑った。
「出てください」
「しかし、話が途中だ」
「大事なお電話でしょう?」
「十五分で戻る」
「ええ」
蓮司は立ち上がり、通話ボタンを押した。
「御堂だ。どうした」
英語へ切り替わった声を聞きながら、澪はその背中を見送った。
蓮司は書斎へ向かう。
扉が閉じる直前、こちらを一度振り返った。
それでも通話を切ることはなかった。
澪はソファに一人残された。
十五分。
そう言った。
だから待ってみようと思った。
今日くらいは。
時計の針が進む。
十五分が過ぎた。
二十五分。
四十分。
一時間が経った頃、澪はキッチンへ行き、冷蔵庫を開けた。
明日の朝食用に仕込んであったスープが入っている。
蓮司は朝に重いものを食べない。だから野菜を細かく刻み、胃に負担がないよう味を薄くしてある。
隣には、彼が毎朝飲むコーヒー豆。
残りが少なくなっていたので、昨日、新しい袋を注文した。
洗面所には蓮司がよく使う胃薬も補充してある。
寝室には明日のシャツ。
玄関には磨いておいた革靴。
何でもないことばかりだった。
妻でなくても、家政婦でもできることかもしれない。
けれど澪は、蓮司がどの豆を好み、どのシャツなら重要な会議の日に気分よく袖を通し、胃が荒れている時に何を食べるか、誰に言われなくても知っていた。
そして蓮司は。
自分が何を好きなのだろう。
澪は考えて、苦笑した。
たぶん知らない。
「私も悪かったわよね」
誰もいないキッチンで、小さく呟いた。
教えなかった。
誕生日に欲しい物を聞かれれば「何もいりません」と言った。
食べたい物を聞かれても「何でも大丈夫」。
行きたい場所があっても、仕事の邪魔になると思って口にしなかった。
自分から透明になっておいて、見つけてもらえなかったと嘆くのは少し卑怯なのかもしれない。
それでも。
人間というものは、理屈が分かったからといって傷つかなくなるほど便利にはできていない。
澪は寝室へ戻った。
鏡の前に座り、イヤリングを外す。
次に髪を留めていたピンを一本ずつ抜いた。
まとまっていた黒髪が肩へ落ちる。
最後に左手を持ち上げた。
薬指の指輪。
外そうとして、指が止まる。
三年前の結婚式を思い出した。
『少しきつくないか』
指輪をはめた直後、蓮司が小声で聞いた。
『大丈夫です』
『無理ならサイズを直させる』
『本当に大丈夫です。ぴったりです』
あの時、嬉しかった。
それだけは嘘ではない。
「幸せでしたか、か……」
自分で聞いておきながら、今度は自分に問い返した。
答えはすぐに出た。
「私は、幸せだったよ」
声にすると、涙が一粒だけ頬を伝った。
幸せだったから、終わらせるのだ。
嫌いになるまでしがみつきたくない。
蓮司を憎むようになるまで、自分を粗末にしたくない。
澪は指輪をゆっくり抜いた。
三年間ずっとそこにあったものがなくなると、薬指だけがひどく頼りなく見えた。
指輪を手のひらへ載せ、しばらく眺める。
それから、化粧台の小さなケースへしまった。
書斎の方から、蓮司が誰かと話す声がかすかに聞こえてくる。
十五分で戻ると言った夫は、まだ戻ってこない。
澪は時計を見なかった。
もう待つ必要はなかった。
クローゼットの奥には、昼間のうちにまとめておいた小さな旅行鞄が一つだけ置いてある。
持っていくのは、自分が結婚前から所有していた物だけ。
御堂家から与えられた宝石も、カードも、服も必要ない。
机の引き出しには、すでに記入を終えた離婚届が入っている。
澪はベッドの端に腰掛け、三年間暮らした部屋を見回した。
明日の朝。
ここを出る。
今度こそ誰かの妻としてではなく、自分の名前で生きるために。
第26話 あなた、医者なの? 東都国際医療センターへ着いた頃には、撮影スタジオを出てから三十分近くが経っていた。 澪は車が正面玄関へ着く前に、久我から届いたメッセージをもう一度確認した。『意識清明。循環動態は安定。重篤な不整脈なし。採血結果待ちです。現時点では脱水、鉄欠乏性貧血、摂取不足が主因として考えやすいですが、念のため経過観察します』 少なくとも命に関わる状態ではない。 その一文を頭の中で確認して、ようやく肩の力が少し抜けた。「状態は?」 隣から蓮司が尋ねる。「今のところ安定しています。重い心臓の異常も見つかっていないそうです」「そうか」 蓮司も明らかに安堵した。 撮影中に倒れたのはアルカディア側が手配したモデルだが、御堂ライフスタイルとの共同事業で起きた事故でもある。会社として病院まで来ること自体は不自然ではない。 ただ、蓮司がわざわざ自分と同じ車へ乗る必要まではなかった。「ここからは私だけでも大丈夫ですよ」 澪が言うと、蓮司は窓の外を見たまま答えた。「会社として説明を聞いてから帰る」「本当に半分は仕事なんですね」「残り半分ももう言っただろ」「心配だから?」「ああ」 最近は、こちらが困るくらい素直だ。 澪はそれ以上何も言わず、車が停止するのを待った。 病院の自動扉を抜けた途端、独特の空気が身体にまとわりつく。 消毒薬の匂い。 低く抑えられた話し声。 遠くから聞こえるストレッチャーの車輪の音。 案内表示。 白衣。 ナース
第25話 倒れたモデル 翌朝八時、撮影スタジオにはすでに大勢のスタッフが集まっていた。 アルカディアと御堂ライフスタイルの共同ブランド、その新作を使った最初の大規模な広告撮影である。白い壁と高い天井に囲まれたスタジオには照明機材が並び、衣装ラックの間をスタイリストやメイク担当者が忙しく行き来していた。 澪は予定より三十分早く入り、昨夜手直しした衣装を一着ずつ確認していた。「右肩、もう一度上げてみてください」 昨日、着用時の違和感を訴えたモデルが腕を上げる。「どうですか?」「昨日より全然いいです。引っかかりません」「痛みは?」「ないです」「なら大丈夫そうですね」 澪は縫い目へ指を滑らせ、念のため本人が腕を前後へ動かすところまで確認した。 見た目だけ美しくても意味がない。 写真では一瞬しか残らなくても、その一瞬のために着る人間が苦痛を我慢する服を作りたいわけではなかった。「澪さん」 背後からスタッフに呼ばれる。「御堂ライフスタイルの皆さんがお見えです」「もう?」「九時予定だったんですが、社長も一緒です」 澪の手が止まった。「蓮司さんも?」「はい」 共同事業の最初の広告撮影なのだから、社長が視察に来てもおかしくはない。 おかしくはないのだが。「仕事です」 自分に言い聞かせるように呟くと、隣のスタイリストが不思議そうに振り向いた。「何がです?」「何でもありません」 数分後、蓮司は片桐と商品開発担当者を連れてスタジオへ入ってきた。 澪と目が合う。「おはよ
第24話 後悔の始まり 澪との協議を終えて社長室へ戻った蓮司は、机の上に置かれた書類を一枚も読めないまま、十分以上同じページを眺めていた。 普段なら考え事を抱えていても、仕事を始めれば頭は切り替わる。数字は数字として処理し、判断すべきことを先送りにはしない。それができるから、この年齢で御堂ライフスタイルを任されてきた。 しかし今日は駄目だった。『離婚は撤回しません』 澪の声が、何度も戻ってくる。 冷たく突き放されたわけではない。 むしろ逆だった。 自分が変わり始めたことを認めてくれた。嬉しいとも言ってくれた。別の女を好きになるのは嫌だとまで言った。 それでも、離婚する。 その事実が、蓮司にはまだうまく理解できなかった。 仕事なら、改善が認められたなら次の機会がある。 失敗の原因を修正し、相手の要求を満たせば、交渉を続けられる。 だが結婚は違うらしい。 今から正しいことをしたからといって、それまでの三年間が帳消しになるわけではない。 むしろ澪は、今の自分を見ているからこそ離婚したいと言った。 夫婦という形から一度離れなければ、この変化が本物なのか分からない。 理屈としては理解できる。 感情は、まったく納得していなかった。「社長」 片桐の声で、蓮司はようやく顔を上げた。「何だ」「同じページを十五分ほどご覧になっています」「見ているだけだ」「読んではいらっしゃらないようですが」「お前は監視員か」「秘書です。十五時の経営会議が五分後ですので、一応お知らせしました」 蓮司は腕時計を見る。 本当に五分前
第23話 離婚は撤回しません 三日後、二度目の正式な離婚協議が行われた。 場所は前回と同じ、御堂ライフスタイル本社の来客用会議室だった。 窓の外には秋晴れの東京が広がり、遠くのビルまでくっきり見える。澪は星野弁護士と並んで座りながら、テーブルの上に置かれた合意書案を一枚ずつ確認していた。 財産分与については、澪が請求しない意思を明確にした上で、将来的な争いが起こらないよう文言が整えられている。御堂家から贈られた宝飾品や衣類についても、所有権の確認が済んだ。婚姻中に共同名義で取得した不動産はなく、子供もいない。 法律上だけを見れば、二人の離婚は驚くほど簡単だった。 難しいのは、紙に書けない部分ばかりだ。「こちらについては、双方異議なしということでよろしいでしょうか」 星野が尋ねると、蓮司側の藤原弁護士が頷いた。「問題ありません」「御堂さんも?」「ああ」 蓮司は短く答えた。 今日は仕事の時と同じ濃い色のスーツを着ている。表情も落ち着いているが、机の端に置かれた離婚届には、まだ署名がない。 澪はそこを見ないようにしていた。 合意書がまとまれば、残るのは署名だけになる。 蓮司が書けば終わる。 書かなければ、さらに話し合うことになる。「では最後に、届出時期について確認しましょう」 藤原が言った。 やはりそこへ来る。「佐伯さん側は、合意書締結後できるだけ早く、というご希望で変更ありませんか」「ありません」 澪は迷わず答えた。 蓮司の指が僅かに動いた。「御堂さんは?」 藤原に尋ねられ、蓮司は数秒黙っていた。「その前に、一つだけ澪
第22話 愛されたかっただけ 御堂邸から私物を持ち帰った翌朝、澪はいつもより早く目を覚ました。 まだ外は薄暗く、カーテンの隙間から見える空には夜の色が残っている。二度寝をするには中途半端な時刻だったが、頭だけは妙に冴えていた。 昨夜の会話が、何度も浮かんでくる。『君は、どんな人なんだ』 三年間、欲しかった問いだった。 だから嬉しかった。 同じくらい、腹も立った。 欲しかった言葉は、欲しかった時に届かなければ、それだけで傷になることがある。けれど、遅れて届いたからといって価値がなくなるわけでもない。 そこが厄介だった。 澪はベッドから出ると、まだ冷たい床を踏んでキッチンへ向かった。自分一人のために湯を沸かし、コーヒー豆を挽く。結婚中は蓮司の体調に合わせて豆を変えていたが、今は自分の好きな酸味のあるものを選んでいる。 カップへ湯を注ぎながら、ふと笑ってしまった。「私、これが好きだったんだ」 誰かに合わせる必要がなくなってから、ようやく自分の好みを思い出すことが増えた。 コーヒーは少し酸味がある方が好き。 朝はパンより米。 休日には予定を詰めたくない。 高級なレストランより、小さくて静かな店の方が落ち着く。 雨の日は嫌いではない。 花なら薔薇より白い小花が好き。 そんな小さなことを、蓮司はほとんど知らない。 だが同時に、澪自身も結婚生活の中でそれをほとんど口にしてこなかった。 蓮司が聞かなかった。 澪も言わなかった。 その結果、「御堂澪」という妻だけが出来上がり、その中にいた佐伯澪は少しずつ見えなくなった。 スマートフォンが振動した。 神崎から
第21話 夫婦だったのに知らないこと 悠真と昼食を終えた澪がアルカディア本社へ戻ったのは、午後一時を少し過ぎた頃だった。 午前中を休みにしたとはいえ、午後からは共同ブランドの試作品確認と海外チームとのオンライン会議がある。エレベーターの中で髪をまとめ直し、頭を仕事へ切り替えようとしていたところへ、スマートフォンが震えた。 星野弁護士からだった。『御堂氏側より、前回協議事項について修正版が届きました。財産分与請求を行わない旨についても、後日の争いを避けるため合意書へ明記する方向で問題ありません。ただし、御堂氏本人から一度、婚姻中の私物について確認したいとの申し出があります。代理人を介した方がよろしければ、そのように対応します』 澪は画面を見ながら、少し考えた。 御堂邸には、まだ自分の物が残っている。 結婚後に買った高価な衣服や宝飾品については返却するつもりだったし、すでに一覧も作ってある。ただ、その中には自分が持ち込んだ本や、小さな裁縫道具、母の遺品なども混じっていた。 すべて家政婦にまとめてもらうこともできる。 その方が楽だ。 けれど、三年間暮らした家から自分の物を他人に選別してもらうことに、少し抵抗もあった。『私物については、私が一度確認に行きます。御堂さんが不在の時間でも構いません』 送信してからエレベーターを降りる。 すると数分もしないうちに、星野から返事が届いた。『御堂氏から「自分も立ち会いたい。ただし佐伯さんが嫌なら退席する」とのことです』 澪は思わず立ち止まった。 以前の蓮司なら、立ち会うのが当然だと言った気がする。 嫌なら退席する。 最近の彼は、こういう細かな部分まで少しずつ変わっている。 それが嬉しいのか、面倒なのか、自分でももう分からない。『構いません。明日の十







